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『現代普洱茶の創始人 - 吴啓英』という貴重な伝記TV映像があった

 2011年12月、年の瀬も越えようかという30日に、この普洱茶ノートでぜひ次に取り上げたい話題の『漢口』の資料や溜まった映像を整理したり、ダウンロードしたムービーの flv を mp4 に変換したりしている時に、突然にして今まで出合ったことのない重要な映像にたどり着いていました。
 昆明茶厰の “7581” が生まれる…、いや普洱茶の渥堆技術による普洱“熟茶”の製造技術を研究し開発した、現代普洱茶の産みの母と尊敬される吴啓英先生の功績と生涯を追った伝記的な作品です。普洱茶にとってこれほど重要な事項が、今まで日本で知ることができなかったことを悔しく思います。

『現代普洱茶創始人 吴啓英』     制作:雲南電視台生活資訊頻道 2009年? - 放映


 2006年9月22日「中国雲南普洱茶国際博覧交易会」が昆明で開催され、その開会式の模様に引き続き、「現代普洱熟茶創始人 吴啓英 記念研討会」の会場に移ります。出席した茶産業各界の長老名士の顔が並び、吴啓英老師を顕彰する当日の様子が伝えられ、その後の新聞報道も各種流れていきます。


     黄山飛来一枝花
     滇池碧空顕虹霞
     傳統普洱放異彩
     雲貴高原添奇葩

 この詩で彼女の人生の第一歩に踏み入り、1938年12月に安徽省廬江県の小さな農家に生まれ、廬江南牐小学校、廬江中学と進み、安徽農学院に入学します。


 この安徽農学院は後に安徽農業大学になるのか、話しは安徽農大の茶学・茶叶生物技術重点実験室の表札になり、そこに所属した模様です。この安徽農大の茶学科は、中国茶界の“黄埔軍学校”にたとえられ、国内の茶の主な生産区の高等名門校であり、“復旦”大学の背景と強大な茶の専門の人材育成の実力を持っていると説明されます。

 当時彼女を指導し、後に安徽農業大学校長となった王鎮恒氏が彼女について語り、1960年代の吴啓英は、一人の普通の女子大生だったが、いつも図書館で翻訳書や資料を熱心に閲読していた。しかし彼女の“直接”関係する資料が少なくて、簡単に結論に達することはできなかった。また制茶実習中には手で“殺青”を体験するのだが、100数度の高温で手に水膨れができたり火傷をするのはよくある事だった。

 祖国支援の命を受け“昆明茶厰”に入厰します

 1963年初秋に安徽農学院茶系を卒業すると、祖国の支援の呼びかけに応えて辺境の雲南省昆明に来て、4年間の学習で得た茶の理論と知識をもとに、昆明茶厰の技術員として検査部門に配属されます。着実で几帳面で、努力を惜しまない作業への姿勢は高く、検査も相前後して一つ一つ調べ、係長へと進みます。

 吴啓英はある年の茶農家の茶の集荷の時の事を思い出して、茶農家の家の中の貧しさに感慨を覚えた。“ある家庭は一脚のまともな椅子さえなくて、ベッド上はぼろのワタの繊維で、たくさんの家庭の子供は家庭の貧困のため、10数歳まで入学することもできず、小さな年齢の子でも生計のため、大山深所で牛を放牧して、柴を刈り集め、茶摘みをしている”。
 彼女は“こんなに良い茶葉があり、しかし茶の売り値はとても低く、沿海の都市に比べて茶農家は茶で裕福になる日は来ない、これは良く考えなければならない事です”。農村から帰った呉啓英の心中では雲南の各民族の茶を作る農家の収入が気にかかり、あれこれと自身の中に責任感を生み突破する力量に蘊集します。

 1973年の夏の一日、昆明茶厰は香港からの一枚の注文書を受け取りました。
 “この時、香港は普洱茶を大変必要としており(注:文革期)、私達はどのようにするかを知らないで、いくつか作るのは雲南の青茶で、香港に手渡して香港の商人はその後に見て言うことは、これは普洱茶ではありません、茶を淹れて出るのは緑いっぱいの色で、私達は必要するのはとても赤い色です。”
 更に奇怪なのは、香港商人はまた彼らの所要する普洱茶の見本を取り出しました。香港の商人は広東の茶を私達に渡し、あなた達がこのような茶を作って来ることを望んでいるという。

 このような一種の結果の茶を求められて工場ではわけが分かりません。彼らに届けた雲南茶は、その時の生産高最大の普洱茶で、淹れた後の色合いは黄緑、口に入れると小さい苦み、発酵を経ていないため又の名を“生茶”と称され、香港人の所望した“紅紅的”の普洱茶、これは発酵を経た熟茶なのです。普洱熟茶の湯色は赤く濃くて、透き通ってきれいで、表面に油脂のようなものが浮かぶこともあります。
 普洱熟茶の形成はまさしく偶然です。このように狭い山間の小道で有名な茶馬古道です。荷馬隊は雲南の高山の峻険な苦難に満ちた道を通行して、何ヶ月から甚だしきに至っては一年を費やして、ようやく目的地に到着することができます。その間に普洱茶は風に吹かれ、雨に濡れ、日に晒され、そのため気がつかない間にそれは発酵して、長い運送の時間の中で生茶にはそっと変化が発生します。普洱熟茶の発酵する過程はこのように長く、だからその当時に一般人は飲む機会があり得ないのです。

 人々に奇怪なことと感じさせることは、熟茶は普洱の地で見ることはなく、どうして千里の外から現れますか? 広東には現れますか? 広東人が特殊な技術を掌握したのではありませんか? 時間を短縮して発酵しますか?
 その時昆明茶厰の工場長吴啓英の一行は広州まで学習に行きます。しかし、結果は何も得ることがなかった。その時いっしょに随行した同僚の記憶はまだ新しいです。
 “広州まで巡視に行き、広州に着いて、彼らは鉄の門を閉めて私達に見せないで、最後は私達これらの見学した人は何も学べず帰って来ました。”


普洱茶の発酵技術の開発に立ち向かう

 広州の旅は吴啓英一行の人をとても気をふさがせ彼らをも巻き込んで、普洱茶の発酵技術工程を開発しなければならない強烈な願望を持ったのです。実験は始まりました。前例となる資料は皆無で、方法はただ一つ絶えまない試みです。最も早く思い付く方法は熱発酵です。

 当時の関係者は言います。“始めは蒸気を当て熱で発酵を促す方法で、これは霧を用いて蒸してそのような茶を積み上げた後に、中に水蒸気が通り中へ入って水分を足してまた温度を増加しました。しかしこのようにして何度も繰り返しても駄目で失敗しました。”

 蒸気の作りだす茶は発酵しても、味や湯色などすべてが理想的ではありませんでした。問題はどこにあるのか? 人々がまず思い付いたのは茶の品種の問題です。

 それで初めの試験の失敗は、選択した茶が発酵を行うことに適さないのではないか? どうやって発酵する技術に最も適する茶種を探し当てするのか?
 人々は「高山の雲霧が良い茶をつくる」のひと言を思い出しました。

 山の多い雲南で、多くの地方に成長している高くて大きい古茶樹は、千年以上の歴史を持っている。高山の独特な気候のもとで栄養をつけており、それらの作り出した大葉種茶は、現地の少数民族の伝統的な茶葉製作方法を通して作られる。
 採取した古樹茶は鍋釜で殺青し、揉捻し、続く工程は普通の緑茶と異なり、茶を自然晒干して、烘干の高温を通すのではなく、製造するのは晒青毛茶で、これが吴啓英の探していた原材料です。原料は探し当てて、次に考慮する問題は発酵させる技術です。

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