タイトル

近代普洱茶の先駆者、范和鈞先生

 2005年の秋、書籍「漫話普洱茶」邹家驹著の中の「面対創造歴史的魔術遊戯」という文章の訳を試みていました。

 これは鄧時海著『普洱茶』壺中天地雑誌社刊(台湾)に書かれている、范和鈞先生が佛海茶厰を創設した際に「紅印圓茶」は作られた、という文章の間違いを指摘しているものでした。この『普洱茶』という書籍は、普洱茶の歴史と清代末期あたりからの写真図譜が載っているため、私も最初に購入しています。とはいえ、写真とその解説くらいは見ましたが、繁体中国語で書かれた本文まではとても読んでいません。そのとき、鄧時海氏の記述の誤りは理解できるところまで訳しました。そして「佛海茶厰の創設と范和鈞先生」は、ずっと気にかかることでしたが、具体的に記述した文章がなく、そのまま時間が過ぎていきます。それがこの5月にもう一度調べてみると、网上にこれならと思う資料がありました。
 范和鈞先生の創設した「佛海茶厰」が後に「勐海茶厰」となり、現在も続々と普洱茶を生産しているわけです。その意味で普洱茶の生産に機械を導入した先駆者が范和鈞先生で、[Puer Tea Note_10] はこの方の数奇な生涯に触れたいと思います。
  注)この項を書くにあたり、中国网上の文章3〜5件を参照し、基本は范和鈞先生「创办佛海茶厂的回忆」(1988年)を元にしておりまが、すべて中国語のため誤訳、意味不明など、力及ばぬ箇所多数であることをお断りいたしておきます。

范和鈞先生、なぜか東京生れ

 范和鈞・1905年東京生れ、日本名・范櫻。11歳の時に父が亡くなり、母一人の手で育てられ、成績優秀だったため多い親戚の出資援助を受けて上海浦東中学に入学。2年生・15歳の時に母も病死する。
 浦東中学卒業後、官費留学生としてフランスに渡り、始めはリヨンでフランス語を一年間学び、その後パリ大学に転じて“数学概論”と“高等物理”を学び、パリ第5区聖ヨーク街330番の裏庭のマンションに住みます。
 同じ船で渡仏した柳圃青、何定傑も次々このマンションに引っ越し、柳圃青はそのとき中国共産党と国民党のフランスの総支部書記で、そうした影響で范和鈞も中国共産党に入党。
 フランス留学の途中から公費が中断したため、夜間にパリ市立美術工芸専門学校に学んで、昼間は中国骨董商の油漆絵画の修復工房で働きます。1931年範和鈞は妻と娘と共に帰国し、もとは漆器家具輸出入業務の経営に従事する予定でした。しかし1932年1月28日の日本軍の上海侵攻(第1次上海事変)による戦時発生で、彼の計画は断ち切られてしまいました。

 ちょうどフランスから中国に来て緑茶輸出の情況を考察する農業技師がいて、範和鈞はいっしょに同伴して、中国の茶生産業の状況と程度を知り始めます。視察から上海に戻った後、彼はまた茶生産業の先駆者の呉覚農先生に出合い、先生の招きを受けて上海商品検査局に入り、茶を担当して彼の20多年に渡る伝奇的な茶業の生涯が始まりました。

 1936年の夏、南京で全国手工芸展覧会が催され、上海商品検査局は中国茶叶の特別展示を引き受け、展示室には世界の産茶国の大型の図表が二枚掲げられていました。ここ百年来の世界の産茶国の茶の生産高は直線的に上昇しており、それに反して中国の茶叶輸出の数量は年々下落して、強烈な対比を成していました。范和鈞は国の茶生産は危機的状況で、奮起して急追する勢いを持たなければならないと痛感します。
 1937年の春、中央経済部が上海で中国茶叶公司の予備会議を開きます。范和鈞も招待され出席します。会議は安徽、江西、湖南、浙江、福建の茶を産する省はそれぞれ20万元を出資し、中央経済部及び私営の大厰から各2百万元の資金を集めて、中国茶叶総公司の設立を決定して、経済部商業司司長の寿景偉が社長に任命されます。
 しかしこの年の7月に、抗日戦争が勃発して、東南各省の茶生産と販売は次々と中断して、中茶公司は漢口に支社を移して、そして湖北の恩施に恩施実験茶厰を準備します。范和鈞は各種製茶機械の設計の責任を負い、大規模な機械による紅茶の生産方式を採用して、古法のおくれた手作業の生産に取って代わらせ、製品は全部重慶に運送し販売して、後方(西域・ロシアなど?)によく売れて著しい効果を見せます。科学的な機械的制茶を採用したため、茶の品質を高めて、また茶の国外販売のために明るい将来性を切り開き、そして今後の国内各地の工場を発展させるモデルとなりました。
 1938年、中茶公司は雲南省政府と合資で、雲南中茶公司を昆明に設立します。始めに順寧(現・風慶) 佛海 (現・勐海)と宜良(昆明に隣接)の3地方に実験茶厰の設立を企画し、中茶公司の恩施実験茶厰の経験から、全面的に機械的製茶を推し広めることにします。

茶厰建設の調査と考察をする

 佛海は中国の辺境に位置し、少数民族の居住する地です。地理環境は特殊で現地の風習や人々の実情や、茶の分布情況など、全体的な状況は何も分かっていません。そのため范和鈞は命令を受け、実地調査と考察のため現地に向うことになります。
 1939年の春、范和鈞は張石城と連れ立って、昆明を出発して滇緬道路を経由して、芒市を経て、ビルマの臘戍(Lashio)に入って、自動車で景棟(KengTung)を経る回り道をして西双版納の佛海に到着します。すでに初夏になっており、佛海県教育局長李拂一と同県建設局局長で商工会会長の周丕儒の接待を受けます。
 佛海での調査は困難なもので、しかし一味違ったのです。范、張の2人は馬に乗り雨中、南糯山半坡寨と、巴達山賀寨の原始林の中を調査する時、彼らが驚嘆する古茶樹王に出合い、高くて広い樹囲と野生茶区の中で混生する大きい乔木など、行く先々は原生林が続き、野宿と原住民の竹製の家に泊まり、調査は半年に及びます。

 その後、初めに紅緑茶を試作する。元来佛海地方は大葉種茶の原生地です。生産高はきわめて豊かで、品質にはこくがあり、紅茶を製造して十分にインドダージリン、安徽のキーマン・ティーと同等な製品を大量に製造できる。必ず国際市場に広く行き渡る製品ができると考察します。
 1939年冬、佛海で半年続いた調査を終えて、範和鈞と張石誠は、車里 (景洪) から思茅、普洱、元江、玉渓を経由して昆明に帰りました。省茶司理事長繆雲台は私邸で彼に宴席を張ってもてなし、省茶司総経理鄭鶴春(中茶公司代表)が相伴をしました。
 范、張の二人は佛海の考察資料を携え中茶公司理事会に情況を詳しく報告しました。佛海は省都昆明から遠く離れ辺鄙で、しかし東南アジア一帯のビルマ、タイへ出国するのがきわめて便利で、その上資源に余裕があり品質も優良で、投資して近代的な茶企業を建設することに十分に値すると。

建厰のため、人員と資金と物資の準備をする

 中茶公司と省茶司はすぐ佛海茶厰の創立を決定し、そして範和鈞を工場長に決定します。茶厰創立費は5万元に決められ、別に資金50万元を計画して佛海服務社を創立します。茶厰の必要な運営資金はすべて服務社から提供して、別に投資はしません。
 しかし佛海地区は“伝染性熱病の故郷”といわれ人家は稀で、しかも毎年悪性マラリアの死者が非常に多く、人々は手を焼く仕事だと見なします。現地の住民は焼き畑の耕作で、生産は原始的で生活は清貧です。社会環境、商業の条件はまたとても後れていて、商品の物々交換が現地の主要な交易方法で、日中あるのは昔からの習慣の市で、紙幣は通用しておらず、貿易の重大な障害になります。また当地の気候は年間ただ干湿の2つの季節に分けて、湿季は製茶の季節で乾季は茶叶を包装し運送し販売する季節です。

 1940年の春、正式に建厰に着手し、范和鈞まず重慶に飛んで行き、中茶総公司が調用する元恩施茶厰の初製茶工員25人と、江西の製茶工の20人も要請します。別に滇茶公司の雲南茶叶技術人員訓練所の見習い学生20人も支援してもらい、同時に宜良茶厰の殷保良技師から宜良の竹職工の工員の5人を雇用します。準備を整え殷保良が隊を率いて茶厰の第一陣の従業員90数人、宜良から玉渓まで車に乗り、それから荷駄の一隊を雇用して、峨山、元江、墨江、普洱、思茅、車里などの地を通って、困難な長い道のりをひと月余りで、佛海に安全に到着しました。
 重慶を終わらせた范和鈞は、すぐ上海に向かって、電気の技師、医者と鉄工などの5、6人を招聘します。また茶厰のために各種の機械設備、医薬器材、マラリア防御の薬品などを仕入れ、また佛海服務社は中国百貨店から傣族女性が好む大タオル、紗の頭巾、毛布、魔法瓶、児童の玩具など日用百貨を仕入れて、木箱梱包し海運でバンコクに運び、現地僑商の蟻美厚に依頼し、ビルマの景棟に運んで佛海へ転送します。
 范和鈞は上海から雲南に帰る前にバンコクに到着して、泰僑の蟻美厚と打合わせ、製茶機械の部品を仕入れて、中でも選茎機は中国では初めての輸入になります。その後范和鈞はまたヤンゴンに向かい、茶厰建設のためのセメント、鉄筋など必要な建築資材を仕入れ、その後やっとヤンゴンを離れて車で景棟に行き、陸路から佛海に戻って来ます。

自力更生(自らの力を発揮)して、工場を建設します

 范和鈞たちが選択した工場予定地は佛海の荒地でした。その場で材料を調達し自力で生活しながら、工場の建物を建設することが基本になります。工場所在地を定め、伐採人を派遣して付近の山に向い木材を伐採して、その場で鋸を引いて製材し、大量の孟宗竹を購入し現地に居住する民の、工場の寮を建てるための必要に備えます。同時に一部の大工はテーブルや椅子、ベッド、棚や引き出しなどの生活用具の製作を急ぎます。
 そして工場付近の他民族の労働者を雇用し、工場の後ろの稲田の中を掘って土を練って、土煉瓦と焼き煉瓦の約20万個を製造して、工場の建物の四周に9尺の高い塀を建て始めて、工場内の従業員は自力で生活して、苦楽を共にして、他民族労働者と、昼夜土木工事を興して、煉瓦を積んで壁を築き屋根をのせ、工場の建物や寮はひとつずつ立ち始めて、以前の荒れた面貌に変化が現れます。

  △初期佛海茶厰の面影 (以下3点の画像は [ 范和钧和他的佛海茶厂 ] より)

   △范和鈞と学徒、現地民の工員


佛海茶厰を建厰する2年間の総て

 工場の建物を作り上げ、製茶機械も設置されますが、創業は未だ困難を伴います。第一陣の茶生産をする時が来て、全茶厰の従業員の気持ちは高揚し喜びは胸にあふれます。2年来、范和鈞は一方で工場を建て、一方では雲南茶を生産して国外販売を展開して、当地の経済は繁栄して周辺の民族の生活も改善した。もちろん自分達の貢献はまだ浅くて薄弱だが、しかし力の上でとても大きい慰めを得ました。

 1) 緊茶生産の発展で、茶農家やその労働者を支え助ける

 佛海はチベットへ輸出する緊茶の重要な産地で、緊茶はチベット民族の一日として欠かせない生活の必需品で、だがチベットへ緊茶を毎年販売する量に基準はない。
 緊茶の製作は決して単純ではありません。毎年冬季に普段買い付け蓄えた乾青毛茶(晒青毛茶)を取り出して1個単位の袋に入れ、かまどの蒸気を当て型で蒸圧した後に、その意図した型に成型して布袋を外し、それから約40日ほど屋内の日陰の涼しい所に放置し乾燥と微発酵を促します。再び綿紙で包み5個或いは7個を束ねた形に包みます。
 季候に合わせて馬帮の一隊が到来して、荷を載せて出発します。先にビルマの景棟から岗己へ、列車に乗せ替えてヤンゴンに着き、船便でインドのカルカッタ(現コルカタ)に到り、中継輸送してチベットの境域へ運び取引が成立します。

   △スーツ姿で革靴を履く熱血青年(と説明されている)

 茶農家は力が弱く茶の生産費も小さいため、往々にして地主に使われて、外的な搾取を受けて生計は困難で、意欲的な生産に到らない。そのため佛海茶厰は緊茶の生産を拡大して、茶農家や労働者が自ら生産し販売すること支えます。
 自分たちの意志で緊茶を生産し経営していく意欲を持つなら、佛海茶厰に来厰して署名すれば、現地の富滇新銀行からの貸付を受けられるように保証しました。緊茶を製造した後に佛海茶厰の検査を受け、合格すれば佛海茶厰の製品と一緒に運送し販売して、代金回収後に精算をして支払われる。結果は大いに茶農家の収入を増加させ、少数民族の生活を改善して、生産への積極性も高まり、それによって緊茶の生産も発展しました。

 2) インドが取る緊茶の輸入税と国境通過税を、免除するよう譲歩させます

 緊茶はビルマのヤンゴンからインドのカルカッタに運んで上陸して、税関で輸入税と国境通過税を請求されます。インド税関職員は茶はインドの特産物だという理由で、輸入税はとても高くて、通過税も軽くありません。
 逐次緊茶はインドに到着して、突然輸入税と国境通過税の納入を迫られ、佛海の工商はこうした通関の用意は少しもしておらず、茫然としていどうすべきか分かりません。工商と茶農家は自らに大きな危害が及んで、国外販売をする佛海茶厰に窮状を訴えてきました。
 直ちに雲南中茶公司に申請して、繆雲台理事長から外国銀行の外国為替業務に詳しい蒋錫瓚先生にカルカッタに駆けつけてもらって、駐印度領事の黄朝琴先生に委託して再三印度税関との交渉を頼み、インド側の譲歩を得て解決しました。

 緊茶はチベット族に販売するもので、インド市場で販売しておらず、その上インドは緊茶を生産していないし、印度茶の販路に問題を起こすことはない。最後は税関職員に倉庫内まで緊茶を調べに来させ、税関職員は緊茶は粗い茶葉を使って圧製成形したもので、藏族や近民族が飲んで、インドの経済に決して影響するものではないと納得し、それでやっと依然のように過去の慣例によって免税し通すことに賛成します。佛海茶厰が即時行動して、国家と工商、茶農家の経済的損失を免れました。

 (3)佛海の茶輸出の為替決済に関する問題を解決して、生産と販売を順調に行わせます

 1941年の冬、中央政府は外国為替の政策の規定を作り、すべての輸出茶の所得は外国為替で、中央政府の財政部で必ず為替決済しなければならないことになります。佛海の輸出茶の為替決済する問題に関して、雲南中茶公司は佛海茶厰に立ち合って取り扱います。中茶総公司は雲南中茶公司に佛海茶厰を引き受けさせます。税関は厳格に輸出茶の密輸を取り締まります。
  佛海は国境地帯の都市に属しますが、税関の職員は無駐で、しかし佛海は決して茶の成約の地ではない。茶は外国への輸送し、雲南国境の打洛から中国税関を出国した後に、ビルマ、インドの両地を通りチベット境域に到達してようやく成約でき、そこで外国為替を得ることができます。佛海で外国為替を決済することは事実上不可能で、佛海に外国為替が流れてくるようになくなっていません。
 佛海茶厰は税関の職員と何度も協議して、両者ともに便利な方法を採用し、つまり茶を輸出する時、許可は書面で提出して運送して輸出を先行して、そののち外国為替で決算します。税関と当地の厰商はすべてこの方法が実行して良いと考え、税関から実行の通例を発します。為替決済の問題が円満に解決する方法を得て実行できたため、茶を輸出して商品の代金を得ることができ、それでやっと茶厰の生産と販売の順調な進行に責任を果たせました。

意欲を堅持して建厰し、苦痛に耐えて撤退します

 1941年日本の魔手は東南アジアに伸びて、のろしはビルマ、タイに近づきます。佛海地区も日に日に爆撃を受けて、人の心はびくびくと不安定です。雲南中茶公司から伝令が入り、茶厰の従業員は全員昆明に撤退しなければならことになります。そのとき工場は建厰の使命の完成に到る初期の段階にありました。
 従業員は伝令を受け取ってみんな顔色をなくし、范和鈞の胸の内にも激しい怒りの渦を巻き起こし、全員が撤退する前に工場の全部を作り上げて、侵略者に対して決して屈服しない自信を表したいと考え、全工場員は心を一つにして、急いで発電機械を設置します。
 一週間後、機械室は電力を供給して、全工場の明りを点灯して、ついに工場を建てる歴史の任務を果したことを明らかに示します。同時に機械の音は轟々と、撤退前の悲痛な気持ちを鳴り響かせます。翌日、全工場の従業員が完璧に備え付けた発電機と元からある設備を解体して、思茅まで馬で運ぶため1つ1つ箱詰めする作業を始めます。
 全工員中で残る当地工員が見守る中、残りの人員はすべて撤退します。別れに際し、みんなは泣いて涙が尽き言葉にもならない。初めを回想すれば、みんなは抗日戦争が決着する決心に基づいて、故郷を離れ転々と流浪して、この熱病の地に来て、長年、雲南茶の事業のために汗を振り払い血を流して、いったん撤退したら胸が張り裂けるようではありませんか。それを思うと范和鈞は感情の起伏が激しく夜眠ることができなかった。

佛海茶厰を撤退した後の范和鈞先生は・・・

 1943年、範和鈞先生は雲南中茶公司の休暇を取り、重慶にある復旦大学茶学部の教授を担当する。抗日戦争終結の後、1947年台湾に渡り、依然として茶の栽培と加工に従事します。
 しかし台湾の土地改革は茶工場の土地を失わせて、先生は再びフランスで働きながら勉強した時の漆器の仕事につくほかなかった。先生の中国漆器の歴史と文化に対する研究は深まって、1981年権威ある著作『中華漆飾藝術』を出版する。(國立歷史博物館歷史文物叢刊:出版社=台北市:國立編譯館)
 1984年、79歳でアメリカに移住して、85年中茶公司に招待されて帰国し、親族訪問をして友達を訪ねます。89年、アメリカで84歳のとき亡くなります。